地方在住の僕が考えるカミングアウトは本当に必要なのか問題

「地方」とカミングアウト

カミングアウトをしよう、そしてセクシャリティを謳歌しよう、という空気があります。

LGBTを扱うメディアや運動などが、一個人のカミングアウトこそ、社会にLGBTの存在を知らしめる一歩だ、と考えているからではないでしょうか。

しかし東京と地方ではカミングアウトの「意味」が違うのではないか。東京には「ゲイであること」の受け皿としての場所がたくさんあるでしょう。

つまり「日常」と「ゲイである日常」の棲み分けができる。どっちも行き来できるので、心に余裕がもてる。だから「ゲイであること」を受け止めることができる。

ただ地方は、そうはいきません。ゲイバーやゲイナイトの数は限られてますし、アプリの動きも少ないです。そうなると「日常」と「ゲイである日常」を混同してしまう。

「ゲイであること」を内緒にしていると、ウソをついている、という罪の意識のようなものが生まれます。辻つまを合わせるのに必死になり、疲れてしまう。その果てしなさには息が詰まりそうになる。

友だちや職場のひとに、気づいてほしい。わかってほしい。つまり受け皿として「ひと」を選ぶのですが、とはいえ、カミングアウトは、いつでもどこでも、誰にでも、という具合にはいきません。

Photo by Christin Hume on Unsplash

カミングアウト=手段

そもそもカミングアウトとは「手段」です。セクシャリティを打ち明けることですから、「ゲイであること」を知ってもらう、という目的があります。なぜ知ってほしいのか、というと、「隠すのがワケあって困難となった」からではないでしょうか。「言ってラクになりたい」ということです。

「ラクになりたい」という気持ちは、ネガティブな発想ですから、そのカミングアウトには「痛み分け」という意味がともなってしまいます。「『しんどさ』を共有してよ」とお願いすることになります。これは相手にストレスを生んでしまうのではないでしょうか。

 

「そうかもしれない/そうである」はちがう

「ゲイであること」は、そもそもに相手の想像の斜め上をいくことです。こんなにデータとして、クラスの10人に1人はLGBTで、とか、テレビで特集を組まれたりだとか、著名人の公言だとかがありますが、そうでないひとには、まったく関係ありません。

「そうかもしれない」とあなたのことを思っているひとがいても、「そうです」と打ち明けることとはまた、話がちがうのです。

幼なじみにカミングアウトしたとき、彼はわたしのことを「ゲイである」と認識していると思っていました。お互い学生でした。「LGBTの友だちがいる」と話したこともありましたし、理解ある反応をしてくれてました。ハッキリ言っとこうかな、くらいの、軽い気持ちで打ち明けたのですが、それでも彼は、ショックを受けていました。というより、反応に困っていました。その日はそれっきり、話が進まなかった。

数日して別の友だちから「アイツはさいきん浮かない顔をしてる」と耳にして、本心はわからないけれど、胸がギュッとなったことを今でもよく覚えています。

 

Photo by Christin Hume on Unsplash

カミングアウト=会話

カミングアウトとは、打ち明けることであり、話すこと。つまり「会話」です。自分にとって重大なことを打ち明けますから、大げさにとらえがちですが、根本としてはただの「会話」です。

疲れているときや忙しいとき。他愛のない話にでさえ、ストレスを感じてしまういます。大きな意味を持つことなら、なおさら。

つまり相手の状況を読んでから打ち明けないと、単純に失礼です。その状況とは肉体的だったり、精神的だったり。突然「想像の斜め上」のはなしをされると、ビックリしますから、徐々に慣らしていく必要もあるでしょう。私はそれが、足りなかった。

 

あせる必要はない

「耐えられない」から「いま打ち明けなきゃ」と思うわけですけれども、その「いま」というのが本当に「いま」なのか、見定めることが肝心です。それは自分と相手の「いま」です。

学生同士だと、お互い日々めまぐるしいでしょう。勉強にあそびに、進路のこと。精神的にも、生きているだけで勉強の最中です。社会人になっても、働き始めの数年は、ドタバタと過ごしているものです。なのでもう少し落ち着いてからでも、遅くはないのではないか。

「時間が解決すること」というのは、この世界にあふれています。時間が経つことで、学ぶことは多い。そのなかで「人の良しあしにセクシャリティなんて関係ない」と思うひともいるでしょう。むしろ、時代の流れとして、そういう風になってきていますから、そう「気づく」のです。

何よりあなたも、年を重ねることで「ゲイであること」、つまり「自分であること」を「ふかく冷静に」とらえられるはずです。

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「いま」を大事に

とはいえ、言いたいときには言うしかありません。手のひらを返すようですが、言いたくなったときが「タイミング」です。自分が何歳まで生きるかなんてわかりませんし、「いま」が楽しめてないなら、カミングアウトもひとつの手かもしれない。

幼なじみに打ち明けたあと、後悔を晴らすために、「いま」を楽しもうと、友達を増やすことからはじめました。彼にばかり頼っている自分に、何より、「ゲイである日常」にこもってる自分に気づいたのです。いろんな場所に出かけたり、SNSを活用したり。あたらしい趣味を見つけたり。

ひとに出会い、あたらしい発見をすることで「自分は自分でいいんだ」というよりも「自分は自分でしかないな」と思いましたし、「ゲイである」ということが、いい意味で、どうでもよくなりました。なので、今ではカミングアウトの必要性もあまり感じないのです。

 

よき「話し手」であるということ

重要なのは、あなたがよき「話し手」であるということではないでしょうか。技術や豊富な話題とか、友だちが多いとか、そういったことではなく。よき話し手とは、いったい何か。わるい話し手とは、何か。

よき話し手となったとき、「いま」かな、と考えてみるのも、悪くはないでしょう。

そのとき、よき「聞き手」と出会えますように。

 

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